吉野家の歴史 多店舗展開時期 1968年〜

1968年(昭和43年)

1968年に2号店・新橋店、1969年に3号店・神田店をオープン。1972年頃 吉野家2号店である新橋店を24時間営業、店舗拡大したころから、チェーン化を目指し、「早い、うまい、安い」をキャッチフレーズとした。

新橋店 新橋店
新橋店 新橋店

1971年(昭和46年)

吉野家が日本でチェーン化をスタートさせた時、同時にアメリカでのチェーン展開も構想しており、松田瑞穂は文字でなく、見ればわかる吉野家のシンボルとなるオリエンタルマークを作った。1975年前後から看板に登場。

オリエンタルマーク含む店舗看板 オリエンタルマーク含む店舗看板

1975年(昭和50年)

牛丼が海を渡り、米国・コロラド州デンバーに吉野家海外一号店をオープン。牛丼を「Beef Bowl(ビーフボウル)」と銘打って販売した。

1976年(昭和51年)

牛丼商品の調理過程で発生する牛脂を、油脂化・油脂製品化による100%リサイクルを全店(離島を除く)開始。

1977年(昭和52年)

吉野家独自のうまい牛丼をつくる技術の研鑽と継承を目的とした、「量目」「調 理工程」「盛り付けの見た目」など の牛丼の盛り付け技術と運営コントロール技術を合わせた総合力を競うトーナメント式の社内コンクール「肉盛実技グランドチャンピオン」を開始。

「肉盛実技グランドチャンピオン」を開始

1978年(昭和53年)

ドライブスルー方式「ビーフボール」国内1号店(広島・安古市)開店。

1979年(昭和54年)

当時は牛肉の輸入は自由化されておらず、吉野家が確保できる牛肉の量は200店舗分が限界と言われていたが、1978年に200店舗を超え、牛肉の調達が限界に達した。牛肉の量が足りなくなり、フリーズドライ肉の開発を開始。また、地方への輸送の効率を上げるため、牛丼のたれを液体から粉末にした。結果、当時の技術では、牛丼の品質は低下し、お客様離れが起きた。