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企業情報

吉野家の歩み

ゼロから再スタートした築地一号店

1945年3月10日に発生した東京大空襲は、再び東京を焼け野原にした。
吉野家も店舗を焼失。三度目のゼロからのスタートを切ることになった。
終戦後、栄吉はただちに屋台で営業を再開した。そのころ、本来店を継ぐはずであった、栄吉の息子であり、後に初代社長となる瑞穂の兄・明男が戦死したという公報が届く。瑞穂は復員後、大学に通っていたが、1945年(当時24歳)、店を継ぐことになった。知識も豊富で人望の厚かった瑞穂は、以前築地で商売をしていた人々を集め、組合を設立。再び市場近く吉野家の歩みに店を持てるようにした。

その功労から、吉野家は一番立地条件の良い角地を獲得。1947年に店舗営業を再開した。

お客様の満足と徹底的な効率化の末にたどり着いた牛丼というカタチ

1950年ごろになると、築地市場には1日5万人の来場者が訪れるようになった。大卒者の初任給が5000円程度の時代に、築地市場の来場者は一人あたり4万から5万円ほどの現金を持ってきており、1日に動く金額は20億円を超えた。文字通り、築地は日本最大のマーケットであった。
当時、吉野家の牛丼はうな重と同じくらいの価格設定で、少々高級な食べ物と位置づけられていた。しかし、味の評判は良く、舌の肥えた市場の人々から支持を集め、店に客足が途絶えることはなかった。

1958年、瑞穂は資本金100万円で株式会社吉野家を設立。当時の年商の6倍、1億円事業を目指した。築地市場は日祝祭が休市のため、1日に1000人以上の入客が必要であった。わずか15席の店舗でそれだけの客を迎えるために、接客、調理、盛り付けなどあらゆる面で工夫が重ねられた。牛丼以外のメニューはすべて排除。牛丼単品での勝負に打って出た。「あった方が良い程度のものは、ない方が良い」という瑞穂の思想は、このころから具現化されている。さらに「牛丼を食べにくる客は牛肉を食べに来ているのだ」と気付いた瑞穂は、それまで具材に入っていた焼豆腐、筍を取り除いた。代わりにたっぷりの牛肉と牛丼にベストマッチする玉ねぎだけの具材でシンプルな牛丼の提供を開始した。

年商1億円達成。そして多店舗化への一歩を踏み出す。

徹底して無駄のないオペレーションを実現するため、瑞穂は従業員教育に心血を注いだ。当時の従業員のほとんどは女性だった。瑞穂は、毎週土曜日の2時間を従業員の教育に充てた。3カ月ほどで成果は目に見えてきたが、女性従業員の体力では限界が見え始めたため、男性を主力とした従業員の雇用へ切り替えていった。
また、牛肉の品質安定のためと、限られた店舗スペースを最大限活用するために、1962年、資本金300万円を投じ「練馬畜産部」を設立した。牛肉の加工はすべてそこで行い、店では盛り付けに専念できるようにした。店舗に納入されてから食材の品質を気にするのではなく、その前段階から食材を管理することで、客席の回転数向上と品質の安定化を図った。これは後に、チェーン化していくうえでの重要なポイントとなった。
店舗運営の基盤が整うと、従業員の作業の効率化もさらに高まっていった。
牛丼屋の事業化を目指し、株式会社吉野家を設立した瑞穂はご飯にまんべんなくたれをかけられる47 個の穴のあいたお玉の開発、盛り付けのオペレーション、そして顧客の記憶である。築地市場は閉じられたマーケットであるので、顧客の大半は常連。従業員は、顧客の顔を覚え、席に座るやいなや間髪いれずに客好みの牛丼を提供した。
極限まで高効率化したシステムと、強力な商品力を持った牛丼を武器に、1965年、ついに吉野家は年商1億円を達成した。
瑞穂は次に年商3億円を標榜。しかし、どのように試行しても現在の状況ではなし得ない目標だった。
そんな折、日本リテイリングセンターが主催するペガサスクラブの中吊り広告が瑞穂の目に留った。テーマは「小売りで三億円売る方法」。瑞穂はこのセミナーで、チェーンストア理論に出会う。築地1店のみでの売上で年商を稼ぎだすことしか念頭になかった瑞穂は、セミナーでの渥美俊一氏の一言に衝撃を受けた。「一億円売れる店を三つ作りなさい」。以降、瑞穂は経営セミナーに積極的に参加し、猛烈な勢いでチェーンストア理論を学ぶ。また、多店舗経営の先進国アメリカを視察し、チェーン化とは何か、肌で感じた。そして1968年、新橋に2号店を出店。多店舗化へと踏み出した。

  • 1899
    当時、東京都中央区日本橋にあった魚市場に個人商店として吉野家が誕生。
  • 1926
    関東大震災(1923年)により魚市場が築地に移転したのにともない、同地に移転。
  • 1958
    父のあとを引き継いだ松田瑞穂社長が牛丼屋の企業化をめざし、資本金100万円で株式会社吉野家を設立(12月27日)。
  • 1973
    米国・デンバーに牛肉の買い付けを目的としたUSA吉野家を設立。
    フランチャイズ第1号店を神奈川県小田原市に開店。
  • 1975
    ビーフボウルと銘打って、米国・デンバーにYOSHINOYA・米国1号店を開店。
  • 1977
    米国にYOSHINOYA WEST INC.を設立。
  • 1980
    会社更生手続きを申請。
  • 1983
    更生計画が認可され、セゾングループが資本参加。資本金5億円で再スタート。
  • 1987
    当初計画より早く更生債権100億円を完全返済。
    台湾に合弁会社台湾吉野家を設立。
  • 1988
    日本でダンキンドーナツを展開する株式会社ディー・アンド・シーと合併、
    社名を株式会社吉野家ディー・アンド・シーに変更。
  • 1990
    店頭登録銘柄として社団法人日本証券協会より承認。
  • 1991
    香港に開店。
  • 1992
    中国・北京に開店。
  • 1996
    国内出店500店舗を突破。
  • 1997
    シンガポールに開店。
  • 1998
    国内全都道府県への出店完了。
    ダンキンドーナツ事業から撤退。
  • 2000
    東京証券取引所第1部へ上場。
    製造物流部が「ISO14001」を認証取得。
  • 2001
    本社・店舗が「ISO14001」を認証取得。
    フィリピンに開店。
  • 2002
    米国・ニューヨークに開店。
    中国・上海に開店。
  • 2003
    米国での展開を統括するホールディングカンパニーYOSHINOYA AMERICA INC.を設立。
  • 2004
    米国産牛肉輸入禁止により、牛丼を一時販売休止。
    国内1,000店舗突破
    中国・深圳に開店。
  • 2006
    米国産牛肉輸入再開により牛丼の販売を再開。
  • 2007
    株式会社吉野家ディー・アンド・シーの新設分割設立会社として、株式会社吉野家が発足。
  • 2010
    インドネシアに開店。
    創業111周年記念として「牛鍋丼」を新発売。発売後25日目で、1000万食を突破。
  • 2011
    タイに開店。
    「焼味豚丼 十勝仕立て」を新発売。発売後約3ヶ月で、1000万食を突破。
  • 2012
    「焼味豚丼 十勝仕立て」に続き、「牛焼肉丼」、「焼鳥つくね丼」と“焼き”シリーズを新発売。
  • 2013
    米国産牛肉の輸入緩和条件緩和に伴い、牛丼の価格を改定(並盛:380円→280円へ)。
    “ごゆっくり”をコンセプトとした「牛すき鍋膳」、「牛チゲ鍋膳」を新発売。
  • 2014
    牛丼の味・品質の改良に伴い、全メニューの価格を改定。
  • 2015
    健康商品第一弾「ベジ丼」、「吉呑み」サービス、夏季限定として「麦とろ牛皿御膳」を導入